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連ね歌 中篇 

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その日は朝から土砂降りに近い雨だった。
びしょ濡れになりながら、ようやく作業所に辿り着くと、
一緒にボランティアに来る予定だった友人は
体調を崩してしまって来られないらしいと、職員から聞かされた。
昨日はボランティア仲間でカラオケに行って、人一倍楽しそうに歌っていた。
「雨かよ、だりぃなあ」という、彼の声が聞こえた気がした。
作業所には常勤の職員が三人いる。
そのうち一人は休みだった。
もうかなり年配の人なので、この天気では難しいのだろうと僕は思った。

午前中のパン作りで、愛ちゃんとペアを組んで働いている女の人が、
パンを切る機械で指を切ってしまった。
いつもはおっとりとして穏やかな人なのだが、酷い出血にびっくりしたのか痛みのせいか暴れだした。彼女は感情のコントロールがきかないのだと聞いてはいたが、その変貌ぶりに驚いた。
「今日はきっとお客さん来ないと思うから、大丈夫よね」
結局、職員が二人付き添い、病院へ行くことになった。
僕と愛ちゃんは、とうとう二人っきりになってしまった。

午後になって雨足は更に強くなってきた。
日当たりのいい「ひまわり」の中も薄暗く、間接照明から蛍光灯に切り替えていた。
病院へ付き添った職員から、怪我が思いのほか重症で少し縫うことになったのだが、
興奮がおさまらず暴れているので、鎮静剤を使うことになったという連絡が入った。
夕方まで帰れそうにないから、用がなければ時間を延長して欲しいというのだ。
僕はためらいながらも了承した。

その後の僕の行動は、魔がさしたとしか思えない。
もしかしたら、愛ちゃんが僕に魔法をかけたのかもしれないとさえ、思っている。
それほど、自分でも抑えきれない衝動が突然襲ってきたのだ。
僕はなんとお店の入り口に鍵をかけた。
蛍光灯を消すと、店はまた間接照明だけになった。
愛ちゃんは僕の傍に寄り添い、僕の行動をじっと見ていた。
僕は愛ちゃんと向き合った。
愛ちゃんは少しおびえたように顔をこわばらせ身を堅くした。
もしこのまま愛ちゃんが拒否し続けてくれたら、たぶん僕は気持ちを抑えられた気がする。
でも愛ちゃんは違った。なんと目を閉じて、顔を上に向けたのだ。
僕は少しだけ、ほんの少しだけ迷った。
愛ちゃんに対して好意以上の気持ちを持っていたかと問われたら、うなづくことはできない。
そこにあったのは、愛情ではなく、性的興奮にすぎなかった。

僕は呼吸を整えながら、愛ちゃんをゆっくりと抱き寄せた。
愛ちゃんはなされるがまま、僕の方へ引き寄せられた。
僕は愛ちゃんのピンク色の柔らかい唇に自分の唇を重ねた。
愛ちゃんの唇はしっかりと結ばれてたけれど、僕が舌で軽くつつくと、
すっと受け入れてくれた。
あまりに自然だったので、僕は少し驚いた。
愛ちゃんは初めてじゃないのかもしれない、そう思ったのだ。
僕は唇を重ねたまま、客席の長椅子にどさっと倒れこんだ。
愛ちゃんはピンクのうさぎのついたショーツを穿いていた。

最後までは出来なかった。
愛ちゃんの受け入れ体制に無理があったからだ。
さすがにそれ以上、無理にはしなかった。
それが良心だったのかといえば、違う気がする。
最後ににっこり笑った愛ちゃんに、僕はため息を返してしまったのだから。

つづく
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連ね歌 前篇 



「ひまわり作業所」で働く愛ちゃんは、長い髪を毎日きちんと二つに結んで、
蝶やら花やらの可愛い髪留めをつけている。
養護学校の高等部を卒業してから、親元を離れ、
グループホームで暮らし始めて、そろそろ一年が経つらしい。
19歳、この夏が終わったら20歳になるのだという。
作業所では朝早くからパンを焼き、昼間は作業所に隣接している
喫茶「ひまわり」でウェイトレスをやっている、無邪気な笑顔が可愛い女の子だ。

福祉系の大学生の僕は、学生ボランティアとして作業所に通っていた。
作業所で働く人たちは僕たちボランティアを気持ちよく歓迎してくれる。
愛ちゃんも僕たちの訪問をいつも喜んでくれていた。
作業所にも、グループホームにも同世代の友達はいないようだったから、
僕たちと接するのが、楽しいのだろう。
僕は愛ちゃんと同じ年だったが、先輩のような兄のような先生のような気持ち、
どっちにしても上から見ていたのは確かだと思う。
愛ちゃんはおよそ10歳ぐらいの知的能力しかなかったからだ。

愛ちゃんの僕に対する態度が、他のボランティアに対するそれとは
違う事に気付いたのは、通い始めて二週間ほどした頃だった。
愛ちゃんは日常生活にはさほど不自由はない。
計算も出来るし簡単な文章の読み書きも出来るから、
作業所やお店の仕事もスムーズにこなした。
何よりもその人懐っこい性格で、お客さんには人気者だった。

とはいえ帳簿をつけたりは出来ないし、少し難しい計算や
(大勢で来たお客さんが、ひとりずつ支払いたいと言い出したり)
トラブル対処は難しかったので、お店には必ず職員かボランティアがついていた。
いつもは数人いるボランティアがたまたま僕ひとりだったとき、
愛ちゃんがいつの間にか僕にぴったりとくっついていた。
僕は腕に押し付けられたような形になった愛ちゃんの胸のふくらみにドキッとした。
愛ちゃんはそんな僕を試すような目をして、ちらっと見た、ように僕には思えた。
僕は慌てて少し離れた。

それから僕は愛ちゃんとできるだけ二人きりにならないように気をつけた。
みんなといる時の愛ちゃんは、特に変わった様子はなく、
僕の勘ぐりすぎかと考えてしまうほどだった。
でもやはり杞憂ではなかったのだ。

つづく

少し長めのモノを書いてみました。 

こんにちは。えみです。
いつも拙い小説を読んでいただいて、有難うございます。

ずっと超短編でまとめていましたが、
少し長いものも書いてみたくなりました。
「籠の中」は、6~7話ぐらいでまとまるといいなあ(笑)と思っていますので、よろしくお願いします。

なかなか難しくててこずっていますので^^;
途中で別の作品が入るかもしれませんが、
カテゴリー「連載小説」をクリックしていただければ、
続けて読んでいただけます。
校正を繰り返しているので、「あれ?」と思われた時にも
戻って読んでいただけるとありがたいです(^^ゞ





籠の中(3) 

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「・・・夕菜は、ご存知ですか?」
坂木さんから出た「夕菜」という名前に僕は驚いた。
坂木さんは眼鏡の奥から、僕をまっすぐに見ていた。
僕は視線をどこに持っていけばいいのか悩みながら、首を傾けた。
坂木さんは少しほっとしたような顔をした。
「では、彼女とはどこで?」

千絵とは職場で知り合った。僕の会社が商品を卸していた大手文具店で、
千絵は事務をしていたのだ。営業マンとして通ううちに親しくなった。
ごくありふれた出会いだと思うのに、坂木さんは不思議そうな顔で聞いていた。
僕は自分だけがずっと蚊帳の外にいて、ひとりで空回りしていたような、
いたたまれない気持ちになっていた。
こんな状況で自分が得たい情報を、どう手繰り寄せれば良いのだろう。

「可哀相な子なんです」
千絵の生い立ちは聞いていた。
長野にある小さな町で子供時代を過ごしたこと、
家は小さな整備工場をやっていたが、バブルと一緒にはじけてしまい、
お父さんは借金を残したまま蒸発したこと。
お母さんが昼夜働きづめで、千絵と弟を女手ひとつで育てたのだということ。
確かに悲惨な話ではあるが、よくある話だ。
不幸で可哀相だけれど、だからといって絶望するほどの事ではない。
第一、そんな生活の中でも千絵のお母さんは、幼稚園の先生を夢見ていた千絵を
東京の短大に進ませてくれたのだ。
学費は奨学金でまかない、仕送りは殆どないというキビシイ生活だったかもしれない。
でもそんな中で勉学に励んでいる子などはいくらでもいると思うのだ。
僕だってそれなりに苦労もしてきたつもりだったから、日々の生活の中で、
特に同情したりすることはなかった。
「同情を求めていたんでしょうか」
僕の言葉に坂木さんは少し考えてから、首を横に振った。
「それはないと思います。少なくても貴方には」

坂木さんがいう「可哀相な子」というのは、生い立ちのことなどではないのだ。
坂木さんは、僕がどこまで知っているのか試しているのだ。
「夕菜」ってのは、何なんだ。
僕はテーブルの下でこぶしを握り締めた。

つづく

籠の中(2) 

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僕は千絵を捜し歩いた。
探し当てたからといって、元通りになるものなど何もないことは分かっていた。
それでも僕と千絵の間にあった僕が気付かなかった溝を、確認したかったのだ。

「元亭主なら、知ってんじゃない?」
事も無げにそう言ったのは、千絵と何度か一緒に来た事があったスナックのママだった。
「えっ?・・あの、千絵は結婚してたんですか?」
ママは煙草に火をつけてから、間の抜けた質問をしている僕の顔をまじまじと見た。
自分では分からないが、きっと悲壮感をビシバシと漂わせていたのだろう。
ママはフンと鼻を鳴らしてから、メモ用紙に電話番号をひとつ書いた。
「あたしから聞いたって言わないでよ」
右手でメモ用紙を僕の胸ポケットにねじ込みながら、左手ですばやく股間をまさぐり、
それから唇にキスをした。
情けない事に僕は泣いていたかもしれない。
ママは僕の背中をぐっと押して店の外に追い出した。
「あっ、そうだ」
扉を閉めかけたママが、僕の袖口を掴んだ。
「千絵って言ってもわかんなかったら、ゆうなって名前出してみな。夕方の夕に菜っ葉の菜で夕菜。ね、頑張って!」
そう言ってママは僕の肩をするりと撫ぜてから、ドアを閉めた。
どういう意味なのか、僕にはさっぱり分からなかった。
でも質問したり出来なかった。
いったい何が分からないのかさえ、分からなくなっていたのだろうと思う。
亭主になり損ねた男が、元亭主の男に電話を入れたのは、次の日の夜だった。「夕菜」という名前を出したかどうか、思い出せない。

待ち合わせをした喫茶店に、ダークグレーのスーツ姿で現れたその人は、
僕が思い描いていたよりも、ずっと大人の雰囲気を携えていた。
突然やってきた元妻の婚約者だという男に、戸惑ったりうろたえたりする様子はなかった。
差し出された名刺には、名門の塾の名前があり、主任講師となっていた。
前は坂木千絵という名前だったのかと、名刺を見ながら僕はぼんやりと思った。

「そうだったんですか」
僕の話をひととおり聞き終わってから、坂木さんはゆっくりと口を開いた。

つづく

籠の中 (1) 




「誠吾君へ
私は、どんなに償っても償いきれない罪を犯してしまった人間です。
あなたと幸せになることはできません。
騙すつもりはなかったんです。
それだけは信じてください。
本当にごめんなさい。千絵」

千絵からの手紙は、呆れるほど短かった。
こんな手紙を残して突然消えてしまったのだ。
ふたりの結婚式が来週に控えているというのに、だ。
今になってみれば、それまでの千絵がどんなに悩み苦しんだことかに、
思いを巡らせることが出来る。
でもあの時の僕はただ呆然とするしかなかった。
それからふつふつと怒りがわいてきた。
裏切られた思いが増幅していったのだ。

3日たっても4日たっても千絵は戻ってこないどころか、連絡もなかった。
携帯電話は通じないし、アパートも引き払われていた。
職場は半月も前に辞めていたらしい。
「寿退社って聞いてますけど」と電話口で明るく言われたが笑えなかった。
思いっきり計画的じゃないか。
僕は陥れられたと思った。
それでも泣いたり喚いたりしている時間はなかった。
僕は式場にキャンセルを入れ、招待客に連絡をして詫びるという、
屈辱的な作業を淡々とこなした。
身内も含めて世間というものは、道から外れてしまった人間に対して、実に厳しい対応をするものだ。
僕はただ、結婚式直前に婚約者に逃げられた可哀相な男にすぎないというのに、だ。
親にはさんざんなじられた。
母親は「大川家の恥」とまでのたまって泣き喚いた。
会社の上司は黙ってポンと肩を叩いただけだったが、口の端に失望の色が覗いていた。
同僚は「どんまい」と軽く流してくれたのはいいが、
「大川を励ます会」の企画が持ち上がっているようなのには閉口した。
励まされてどうしろというのだ。

事後処理がひと段落した頃には、結婚式を予定していた日が過ぎていた。
一緒に住むはずだった広すぎるマンションで、ひとり酒を飲みながら、
僕はようやく少し落ち着いて考え始めた。
この数日の間に、僕がいかに千絵の事を何も知らなかったかということを
ことごとく突きつけられた。
出会ってから二年もの間、僕たちは沢山の話をしたはずだったのに、だ。
僕は千絵の何を見てたのだろう。

つづく。

約束 



「俺、全然大丈夫だからさ」
将太が嘘をついた。
「うん、すぐに治るよ」
すがりついて泣き叫びたい気持ちをぐっと抑えて、あたしも笑顔で嘘をついた。
ぐるぐる巻きの包帯から目だけ出てる将太は、全然大丈夫なんかじゃなかった。
スカートを裏返しにはいている事にすら気付いてないあたしも、平気でいるわけがなかった。
面会時間の終りを告げに来た看護婦さんに背中を押され、
あたしたちは約束どおり、涙見せずに別れた。
そしてその夜、将太はひとりで逝ってしまった。

バイト先で知り合ったあたしたちは、気楽な大学生活を終え、
それぞれに就職をして、将太が千葉で、あたしが横浜という、プチ遠距離恋愛になった。
研修研修で平日には滅多に会えなかったけど、週末には疲れた身体引きずって、あちこち遊びに行った。
一緒に過ごせる時間が短くなってから、ずいぶん沢山の約束をした。
朝起きた時と寝る前には必ずメールすること。
待ち合わせには遅刻しないこと。
煙草はすわないこと。
二人でいる時には、時計を見ないこと。
喧嘩したまま別れないこと。
そして絶対に嘘をつかないこと。
そこまであたしが並べた所で将太が言った。
「やたらと泣かないこと」
別れ際にあたしがいつも泣いてしまうことをいっているのだ。
「あっこの泣き顔が一週間、目に焼きついて離れないってのはどうよ」
あたしは慌てて涙を拭きながら笑顔をつくった。

「将太が営業車で事故を起こしちゃったの」
連絡をくれたのは、二週間ほど前に挨拶に行ったばかりの将太のお母さんだった。
どこをどう歩いたたか分からないまま、あたしは病院に着いた。
ふっくらしておおらかそうだった将太のお母さんは、憔悴しきって別人のようになっていた。
まさか、そんなばかな、ありえない、しんじらんない、そんな単語ばかりが
頭の中をぐるぐると回って、まとまった事は何も考えられなかった。
まさか、そんなばかな、ありえない、しんじらんない、そんな現実が目の前に現れた。
疲れた顔をしてた将太をあたしが連れまわしたからだ。それで将太は仕事中に・・あたしは自分を責めて責めて責めまくった。

三回忌を終えてやっと、少しはあの頃を振り返れるようになった。
最後の夏に行った森のレストランを、ふと思い立って訪ねてみた。
「また一緒に来ようね」
ふたりでラズベリーパイを食べながらした約束を思い出したのだ。
思い出の中と変わらない風景に圧倒されて、あたしは思わず空を仰いだ。
頭の上を旋回する、二羽の小鳥が視界に入った。
そうか、お前たちはつがいになったんだね。
ずっと我慢していた涙が、今頃こぼれた。

ほんまもん 



初めてもらったバイト代で、夫婦茶碗を買ってきた。
たままた通りがかった陶器市で安く売っていたのだ。
「今日はなんのお祝いや?」
お母ちゃんは茶碗を手にとってしみじみと眺めてから、
いきなりぼろぼろと涙を流した。
いくらなんでも感激しすぎだろうと、あたしはちょっと引いた。

お母ちゃんは大きな音を立てて鼻をかみ、前掛けで涙をぬぐってから、話し始めた。
長くなりそうな気配に、あたしは覚悟を決めてケイタイの電源を切る。
途中で鳴ったりすると、怒り出すからだ。

時代は一気に20年ほど遡った。
お父ちゃんとの馴れ初めなら、何度も聞かされて覚えてしまっている。
またかと思わず耳をほじった。
「あんたももうすぐ二十歳やろ、二十歳いうたら大人や、そろそろええやろ」
いつもと違う口調でお母ちゃんはそう念を押した。

「道ならぬ恋や、今でいう不倫やな」
あんまりびっくりして、私はお茶でむせた。
「お父ちゃんは老舗の旅館の婿養子やったんやで」
「ほな結婚してたっていう事?」
婿養子という言葉がピンとこなかったので、とんちんかんな言葉が出た。
「だから、道ならぬ恋やて、いうたやないか」
お母ちゃんの顔が上気している。
「政略結婚、させられてたんや」
ずいぶん大袈裟な話になってきた。

証言者はいないから、真偽のほどは確かではないが、
通いで仲居をしていたお母ちゃんに、お父ちゃんが一目ぼれしたらしい。
お金が自由にならないお父ちゃんからは、プレゼントのひとつもなかった。
そんなある日、お母ちゃんは自分の給料で夫婦茶碗を買った。
「たまたま陶器市でみかけただけやったんやけどな」
あたしは笑い出しそうになるのをぐっと堪えた。
部屋にやってきたお父ちゃんは、さっきのお母ちゃんと同じように、
しみじみと眺めてから涙を流し、それから「堪忍な」と手を握ったという。
「ぬくいなあ・・このぬくもりだけは、ほんまもんや」

それからどうしてこうなったのかが、一番聞きたいところだというのに、お母ちゃんはもうすっかり自分の世界に浸ってときめいている。
いつの間にかあたしが買った夫婦茶碗は大きなハンカチに包まれていた。
お父ちゃんの病室に持っていくんだと、お母ちゃんが目を細めた。
「きっとようなるで」
あたしもなんだかそんな気がしてきた。

ここにいるのに・・・ 



突然、とてつもなく大きな力で突き落とされたような、
物凄い衝撃が全身に走りました。
そしてそのまま、真っ暗な穴の中へどんどん吸い込まれていきました。
何かにつかまろうにも、私の手には感覚がありませんでした。
手どころか、五感一切の感覚がどこかに置き去りにされたようでした。

気がついた時には、この場所にいました。
何がどうなったのか思い出すのに、時間はかかりませんでした。
カンカンカンカンという音が聞こえたからです。
あの時、私が最後に聞いた踏み切りの音です。

あの日、出張が一日早く切り上がったので、
私はあなたを驚かそうと思いつき、
駅前のコーヒーショップでこっそり待ち伏せをしていました。
そして、とんでもないものを見てしまったのです。

あなたは知らない女の人と歩いていました。
それだけならまだ、会社の同僚だろうとか、大学の後輩だろうとか、
ただの友達に違いないと自分を納得させることができたのです。
でも、あなたと女の人の間には、小さな男の子がいました。
あなたの好きなサッカーチームの帽子をかぶり、
あなたと女の人の手にぶらさがってはしゃいでいました。

思わず店を飛び出し、あなたの後を追いました。
確か妹がいるって聞いたことがある。私は必死でした。
きっと妹さんと、その子供なんだ。
そう思い込もうとした時、男の子があなたを見上げ、にっこり笑って言ったのです。
「パパ」

カンカンカンカン
私の前で駅前の踏み切りが下りました。
それは足早に渡り終えた3人から、私の存在を切り離すように思えました。
私はたまらなくなってバーを押し上げました。
そこまでは覚えています。あの突然の衝撃を受ける前までは。

ある場所で想いを残して死んだ人間の魂は、
そこに留まってしまうと聞いた事があります。
私はどうすればいいのでしょうか。
誰か私に気付いてください。私の想いを受け止めてください。
そうでなければ私は、あの暗い穴の中へ誰かを・・・・。
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